宮本お祭りの歴史

湧玉時代

明治29年 湧玉の記念撮影
この年浅間神社が官幣大社に昇格

明治37年 提灯に宮本の文字
この年日露戦争始まる
寿時代

明治44年 寿(社人町=西門通りと寺地=寿町合同)
 明治末期、国が青年の組織化を奨励した事から俗称「お祭り青年団」と呼ばれる大宮青年団が作られた。分団と呼ばれる地域ごとの組織が現在の祭り組の元になっている。


 明治44年には各町内競ってお祭りを実施しており、社人町は寺地と合同で『寿』を名乗り、今泉から屋台を借り、囃子方を根古屋より招き、習った弟子も混じり編成。
           (村上氏による)
御幸時代

湧玉御幸の記念撮影(浅間大社馬場にて撮影)
大正4年に御幸(宮本、福住)山車建造
※当時は馬場と西門通りに段差はなく、大正時代の神社大改修で通り側に盛り土をして境内地を区画したので、現在は段差がつけられている。以後新たに出来た坂道を新坂と呼ぶようになった。

現在通路として開かれた西鳥居脇に以前は消防団第三分団の詰め所があった。その前を下水工事で掘った際に工事担当者より、2メートルほど下に石畳があったと聞いた。盛り土をする以前のものと思われる。

大正14年御幸囃子方

昭和初期 御幸の祭り衣装
湧玉宮本時代


昭和28年
この頃は屋台に改造されている


昭和32年二の宮分離前当番町として祭りを実施
宮参りで現在の十字街市川家具の角を曲がる。


昭和53年露店のない境内に屋台乗り入れ
この後ひょうたん池の太鼓橋を渡り、
大鳥居をくぐった

昭和57年(市制施行40周年)山車復元
湧玉会の有賀さんに笛をお願いした。
平成時代


平成9年山車蔵建造

平成9年(市制55周年)に区民館前に山車蔵を新たに建造した。上部は部屋になっており囃子の練習場として使われている。



山車蔵看板
山車蔵の看板は書家の故七沢象聲氏の
筆によるもの。

 
山車とミニチュア

伊藤嘉一さんにより山車と屋台の模型が
作られた。

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