囃子

 富士宮囃子は良くも悪くも競り合いが育ててきたといえる。すれ違うこともままならぬ道で山車や屋台が出会った際にどちらが道を譲るかを囃子で決めたと言われている。これが「競り合い」でこれが元での喧嘩沙汰などが後を絶たなかったことから「喧嘩囃子」の別名を持つに至った。この喧嘩沙汰がどんどんエスカレートしたために、申し合わせにより長年自粛されて来た。
 昭和54年頃から競り合い復活の機運があり、決着をつけずに時間を決めて行うなど相互の了解の元に競り合いが再度行われるようになったものだ。

 湧玉宮本では例年10月1日より囃子の稽古が始まるのだが、今年平成14年は予定を早めて9月24日より稽古を始めた。新規に締太鼓を購入したこともあり、太鼓の奪い合いも減り充実した稽古が出来た。笛を新たに習う者が出てきたことが明るい話題であるが、笛の重要性と責任の重さについては口を酸っぱくして教えていかなければと思う。

山車蔵の屋根裏は囃子の稽古場になっていますが、祭りが近づくと太鼓を外に出して練習します。

この10月は冷え込みもきつくとても寒かった。

山車蔵の看板

山車蔵の山車上で囃子の稽古


 初日11月3日の宮参りは子供たちの「道囃子」で隊列を進める。

 この子供たちの中から将来のお祭りを担う者が出てくれることを願いつつ10月初めより毎晩練習につき合っている。

山車の引き回しが始まる。
通常は「にくずし」で山車を進める。自町内の場合は「屋台」を叩くこともあるが、他町内に出た場合は競り合い以外は喧嘩囃子と呼ばれる「屋台」は叩かないのが礼儀である。また、自町内であっても他町が来訪している場合なども同様である。

氏神様の二の宮神社に囃子を奉納する。

山車の入れない3町内の細道や5日の町内引き回しは子供たちが底抜け屋台で囃す。

今年初の競り合いは高嶺が相手だった。
何回やってもその年最初の競り合いは緊張するが、それは相手も同じこと。終わる頃には緊張もほぐれます。
共同催事最初の競り合いは常磐が相手。

終始笑顔で囃す。
 5日町内廻りの最後に浅間大社参道まで底抜け屋台を引き入れ囃子を奉納した。
 男はお囃子女は踊りといった考えがあり、女は山車に乗れないものと決まっていた。子供の道囃子くらいは男女混じってやっていても、屋台や山車に乗って囃子を叩くのは男しか許されなかった。中学生だった囃子方が青年に育っても新規の勧誘は功を奏さず、祭りが終わるたびに労多くして報われぬ思いにさいなまれたものだ。

 そんな時にお囃子をやりたいという女の子が現れたのだ。たとえ大きな障害があってもこのタブーをうち破ってやろうと思った。大きな抵抗は当然あり荒れるのは覚悟の上だ。そして初めて女の子を乗せたときのことだ、会所での慰労の宴がお開きとなり当日の参加者を送り出しほっと一息ついた。その時、「何を!」という大声が聞こえた。女の子たちを裏口から出して用意の車に隠れさせ、玄関から出ると梃子棒を持った後見と棒で殴られかけた青年がいて廻りにいた人たちが必死で押さえている。
 「宮本の山車には女が乗るのか」とよその町内から言われたのが悔しいと嘆くそんな後見を、年寄りが「女が乗って何が悪い」と諭し抑えてくれ、それからやっと女子の囃子方が公然と山車に乗るようになった。
 
 今日ではほとんどの町内で女の囃子方が育っており、競り合いを女子で行うことも増えている。しかしこのタブーを破るのがどれだけ覚悟が要ったものか知る人は少ない。

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