踊り

 昭和50年代、祭りが長期の低迷から脱しようとしていた頃である。まだ当時は山車の土台に屋台を組み上げ、青年と子供会主体でお祭りをやっていた。
 踊りを指導してくれたのは佐野さんという男性だった。引き回しの途中、屋台に積まれたカーペットが引き出され広げられると佐野さんの個人舞踊が始まる。そのために購入したというきんきらの衣裳が佐野さんの自慢であった。やんやの喝采を浴びるのが至上の喜びであったに違いない。しかし共同催事が始まってから、町内の引き回しに時間が割けなくなった。個人舞踊を披露する場が無くなったのである。
佐野さんの個人舞踊も踊り指導も、いつしかなくなってしまった。



 代わって踊り指導を引き受けたのが子供会のお母様の先輩方。毎年新しい好きな曲に独自に振り付けし踊る事で、踊りは年々盛り上がってきた。

上集合写真は昭和54年の秋祭り

左写真は踊り方のご婦人方

踊りの練習は宮崎さんの駐車場をお借りして1週間ほど行う。

祭りが低迷し青年団入団の勧誘も不発に終わり解散を考えていた頃、無邪気に楽しげに踊りの振りを真似てみせる幼子を見て目から鱗が落ちた。

この子どものためにも祭りを無くしちゃいけない。

←音楽に合わせ体が自然に動き出す

踊りに夢中→

 

踊りは楽しい物、子供も妊婦さんも
踊らずには居られないのだ。
 誰が決めたか男はお囃子女は踊りといった考えがあり、いくら踊れと言われても踊りはなんだか気恥ずかしい物と思っていた。青年が踊る踊りは炭坑節と決まっていて、祭りの最後に尻を叩かれながら渋々参加した物だ。
 ある時そんな考えがぶっ飛んだ。青年長だった若者が実に楽しげに踊ってみせたのだ。踊る青年長はその祭りの主役になった。
 それからというもの、囃子方も下にいれば踊る。音楽がかかれば踊る。祭りの最後にはうっぷんを晴らすべく、くたくたになるまで踊りまくるのだ。 

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